電気もつかない、ねるところも飲み水もない…、
真っくらで、どこにどのようにしてにげればいいのか分からない…。
“どうしてこうなったのか?
これからどうなるのか?”
…なにも分からない…
そんなときに、みなさんはどんなことを考えますか?
家族も近所の人も、だれもが傷ついて途方にくれていたとき…、
夕方には風が海から山の方に吹きだして…、黒い雨がふり始めたの。
私は“もんぺ”をはいて白いブラウスを着ていたのだけれど、それが、黒い水玉模様になってね…。
(もんぺなど、当時の服装や暮らしぶりについては編集後記の資料サイトを参照してください。)
わけの分からない恐怖は忘れたくても忘れられないものよ。
被害があまりにも大きくて、正確な死傷者数は不明のままですが、とにかく原爆投下から数年以内に、広島では約20万以上の命がうばわれたといわれています。
200000人といわれても、なかなかピンとこない数字ですよね。
ドジャー球場(Dodger Stadium)の収容人員が56000人(5万6千人)ですから、今度、スタジアムに行ったら、ぜひ、
『目の前にいる観客の何倍の命がうばわれたのか』
を、想像してみてくださいね。
この中には、B29で空爆に来て落下傘で降下して捕虜になっていたアメリカ軍の兵士や、イギリスやオランダの兵隊さんもいたそうです。
あの年の10月…わがやにやっと一つの電灯がともるようになったころ…、
『広島は不毛の地になった。― 70年間は草木も生えない。』と言われていたころ…
板の上にねかされていた父が、床板のすきまから生え出した草の芽を見て
「おれたちも生きられるぞ!生きることができるんだ!」と、さけんだの。うれしかったわ。
でも、黒い水玉模様のシミと同じで、生きることへの不安は消えないのよ。
すでに、今の世界にある新しい爆弾の破壊力は、あのころより何十倍、何百倍もの強さです。
すごい破壊力を手にしている恐さを、みんさんには考えてほしいですね。