アメリカ在住ヒロシマの語り部、和ママ

1927年1月~2017年6月


ロサンゼルスのパサデナという町で1927年1月に生まれたので私もアメリカ人です。でも、幼稚園のころに両親に連れられて里帰りし、広島で育ちました。

「アメリカは広くて、夢をかなえてくれるデッカイ国」と、いつも両親から聞いていたので、第二次世界大戦が始まった日本で、いきなり「鬼畜米英きちくべいえい」なぁんて教えられても、敵だとは思えなくてねぇ…

戦後、日系二世の九州男児と結婚してロサンゼルスで暮らし始めました。無理だとあきらめていたこどもにもめぐまれて、今、生かされていることに感謝できるようになり、アメリカ市民として自分ができることを考えるようになったの…。

 私にできることは『アメリカで大きくなるみなさんにヒロシマでの体験を伝えて、平和のありがたさを考えてもらうこと』だと思って、今までがんばってきたの。

アメリカで子育てをして、おばあちゃんになっても、1945年8月に私の心と体に焼きついた 色…

晴れわたった青空の色

 白いブラウスにしみついた灰色

 火事と血液の赤

 恐怖の暗闇が色あせることはないのよ。

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補足説明ほそくせつめい―1:1930年ごろの日本】

みなさんのおじいさんやおばあさんが子供のころ、日本は中国などのアジアの国々を侵略しんりゃくして、世界大戦のうずの中に入っていきました。アメリカやイギリスなどと日本が戦争をしたのです。

世界大戦で、医療いりょう通信機器つうしんききなど、今の私たちの生活をささえる産業さんぎょう発展はってんしましたが、そのかげには多くの犠牲ぎせいがありました。

世界大戦が終りかけたころ、アメリカで原子爆弾げんしばくだん開発かいはつされました。

当時の広島には据石すえいし和さんのようにアメリカで生まれた人やアメリカ移民いみんのしんせきなど、アメリカと深い関係を持つ人がたくさんいました。さらに、捕虜収容所ほりょしゅうようじょにはイギリスやオランダの兵士へいしもいましたが、原子爆弾の最初の投下地とうかちに広島が選ばれました。

原子爆弾の熱風や死のはいは、老若男女ろうにゃくなんにょ国籍こくせきの区別なくおそいかかり、75年以上たった今も人々の心と体を苦しめています。


【補足説明―2:Hibakusha :ひばくしゃ】

空襲くうしゅう爆撃ばくげきで被害を受けた人を被爆者ひばくしゃ
放射能ほうしゃのう(Radiation)をあびた人を被曝者ひばくしゃと、
火へんと日へんで区別することもあります。