難しい政治のことはおばあちゃんには分からないわよ。
わたしを育ててくれた日本にもアメリカにも同じように感謝していて、どちらも愛しているから、どっちが悪いなんて言えないわ。
でもねェ~あのころ…、
原子爆弾を開発した研究者たちも、戦争に足をふみ入れた人たちも、
だれもが、愛する人と祖国のために良かれと信じてやってきたことだからねェ。
ただね…もし、みなさんが二つの型の紙飛行機を作ったらどうするか…、
これから先は、若いみなさんが自分で考えてみてちょうだい…。
みなさんは“平和のタネ”ですからね。
Interview footage of Kazuye Suyeishi for "Seeds" was provided by TSS-TV Co., Ltd.
『この体は、もうポンコツだからねェ~』と、白内障(Cataract)で病院に通いながらも、
『高級車には死ぬまで無縁 だと思っていたのに、"キャデラック"なんて病名をいただけて…よかったわ。』と笑いとばす和さんの明るい人柄 がアメリカ人もひきつけています。
2012年11月こどもの家土曜クラスにて
秋の叙勲(領事公邸にて)
「美人薄命だと思っていたけどねぇ~ 、
憎まれっ子、世にはばかる・・・だね。」と、
笑顔でジョークを交わしたのが4月。
その2か月後(2017年6月12日)に永眠なさいました。
4月13日のおしゃべりを追記して、和ママのご健闘に感謝申し上げます。
なんでここまで頑張ってこられたのか?って・・・
あのとき、ピカドンの下にいた人間にキノコ雲は見えなかったんだよ。
何が起こったのか判らない、
どうなるか見当もつかない世界で、
遺体の片づけや看病をしていた人が、次々に突然亡くなっていくんだよ。私は、『生きたい』と願いながらもわけもわからずに死んでいった人々に、生かされただけのこと。
原爆なんて、だぁれも知らない時代だからね。
生かされた人間にあるのは不安と恐怖だけ。
悪いことはなぁんにもしてないのに、キノコ雲の下にいたことが罪のようにおおいかぶさって、はずかしいことのように口を閉じるんだよ。
生かされた人間は何かをしなくちゃいけないと思っても、いじめにあうかもしれないというのが恐ろしかった。お嫁になんて行けないしね。
そんなときにパパさんがプロポーズしてくれて、あきらめていた子も授かった。大好きなパパさんの子を産みたいけど、被爆者というわけのわからない不安を残すだけでは?
と、悩んで悩んで悩んだけど、生きたくても死んでいった人たちの分も生きなくちゃ!
と、授かった命をつなげたくてね。
とにかく、『アメリカの地で、母親の私がいつ死んでも生き抜いていけるように』と、娘は厳しくしつけて自立させたよ。
パパさんのタネである一人娘がアメリカで生き抜いていけるように【平和のタネ】まくしかないと思ったんだよ。
子どもの暮らしをインボルブしちゃいけないと思って、自分でできることをコツコツと続けてきただけのことよ・・・。
2017年4月13日
サイト制作者(Sa Chi)より:2021年春
アメリカで生まれ育った息子(1980年生まれ)が、現地校のプロジェクトで「広島について調べたい」と言い出したのが1990年代でした。このとき、大江健三郎氏や丸木夫妻と手紙のやり取りをしたり Mrs.据石にインタビューをした資料などが我が家に眠っていました。私が『50歳の手習いで、和ママのお話を次世代に残したい』とリトルトーキョーのパソコン教室に通い始めたのが1997年。当時は『ホームページって、なぁに?』と言われたものですが、今ではインターネット上の動画資料も充実しています。翻訳機能を利用すれば【英語のページ】がなくてもよい時代になり、スマホ用のレスポンシブWebに更新してみました。拙作サイトをご覧いただきありがとうございます。誤字脱字など、下の蜻蛉クリックからE送信していただければ幸いです。